2013年03月20日 00:00

Ricoh R6
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本日の写真、ちょっと心象風景風に工夫にして撮影したコマだが、被写体は「千社札」。自分の写真をボケェと眺めていて、そうだ、せっかくだから千社札のネタでも書こうかと・・・。
本日の写真、ちょっと心象風景風に工夫にして撮影したコマだが、被写体は「千社札」。自分の写真をボケェと眺めていて、そうだ、せっかくだから千社札のネタでも書こうかと・・・。
千社札、子供の頃、親から「神社にお参りした人が残すもので、これが剥がれるまでそこに毎日お参りしているのと同じご利益がある」と教えられた。いわば自分の分身、参拝証明書、神様にお渡しする名刺のようなもの。
余程の信仰心のある人を除いて、我々が神社にお参りするのは初詣と、旅行中、観光地として有名な神社を訪れるくらい。せいぜい年に数回。千社札を正しく活用すれば、まさに願ったり敵ったりのツール。
そして、ふと都内の神社では千社札って見掛けないけど、その風習はすでに消滅したのか?、と疑問に思った。調べてみよう!。
なるほど!。今書いた通り、千社札はお参りした証しだから、当然神社から許しを得て貼る訳だが、昨今、それを知らない人々、そして機械の発達により、誰もが簡単に作れてしまう「千社札風のシール」が出てきてしまい、それを勝手に貼り付ける輩が増え、化学合成の接着剤によって剥がれなくなったりと、多くの神社では千社札そのものを貼る事を禁止しているとの事。
確かにビニールみたいなシールがあっちこっちに貼られているのが目に付き、これを千社札として神社に貼ったとしても、単なる悪戯でしかない。皆さんも「千社札風のシール」は自分の持ち物にだけに貼るもの、そう思って頂きたい。
確かに江戸時代中期になると千社札は江戸庶民の遊びのツールだった。現代風に言えば、お洒落な名刺をどれだけ配れるか・・・(千社札の場合は、配るのでなく神社に貼り付ける訳だが)。ところがこの遊びが平成に入って、間違った風習として伝わっちゃった。
神社では他にもどうしてそんな事するの?、って人が結構いる。それは手水にて。「左手、右手、そして口をゆすぎ、最後にひしゃくの柄に水を流す」、これは大概の人は知っているだろうが、問題は口をゆすぐ時・・・。
ひしゃくに直接口を付けている輩を結構な確率で見つける事が出来る。潔癖症ではないが、他人が口を付けたひしゃくで手を洗うなんてとてもじゃないが気持ち悪い。
また、直接口を付けちゃう人ってのは、口をゆすぐ場合、ほんのちょっとの水でいいのに大量に口に含ませるから、吐き出す時に周囲に水が飛ぶんだな。非常識な団体客と一緒になったらもうおしまい。ごめんちゃい、全て清めたつもりになって手水舎を通り過ぎちゃう。
時に、手水舎そのものが機能していない神社も最近増えている。これは恐らくO157とかインフルエンザ予防があるのだろう。どう考えても昔の方が不衛生だとは思うが、今はクレーマーとかモンスターなんちゃらもいるし、神社に対しても行政側から指導しているのかもしれない。
将来、神社の参拝にて、手水舎には手水とひしゃくでなく、アルコール消毒液のボトルが置かれている、そんな状況を想像してしまう。口をゆすぐにもリステリンみたいのが置かれていたりして・・・。
手水舎がない、これは実は参拝にはルールがないと言う事。一般に拝殿では二礼二拍手一礼と言われているが、これもやらなくても良いそうだ。以前、そこそこ有名な神社の神主の息子ってのと知り合いになり、神社ハウツーを色々と教わった。その時に「あれは人間が作ったルール、一般の参拝にルールなんてないよ」と断言していた。
ただこんな苦言も。「神様にお願いするんじゃないんだよね。あれは己の決意表明をし、どうか神様、見守り下さい、これが正しい」とも言っていた。私もこれはその時初めて知り、それ以降、初詣では「昨年は無事に生活出来、ありがとうございました。今年も精一杯生きるのでどうかお守り下さい」と参拝するようにしている。
恐らく多くの人は「お願い」をしちゃうんじゃなかろうか?。これは間違って風習が伝わった特に悪い例だと思う。
とは言え、日本人は「作法の美」、これに突出している。茶道もそうだと思う。良くテレビでお茶の先生が「美味しく飲まれればそれで結構です」と言っているが、やはり作法があってこその茶道なんだと思う。だからこそ神社での参拝も作法に従うのが日本人として「粋」な部分だと思うのだった。
外国メディアが311の震災時の炊き出しの映像を見て、「日本人は凄い、パニックにならずにちゃんと大人しく並んでいる」とびっくりしたそうだが、これこそ子供の頃からある程度の作法を仕込まれているからであろう。
反対に日本人を揶揄するように「日本人はみんな右に倣え」と言う外人、そしてかつては学校の制服、決められた服しか着れない事に驚愕する・・・(今はアニメ、オタクブームだから反対に制服が認められていたりするらしいが)、確かに自分は自分、そう仕込まれてきた世界からすると異様な風景に映る。
こんなアメリカンジョークがある。無理難題を押し付ける際、アメリカ人には「君がヒーローになれるよ」、イギリス人には「女王陛下のご希望である」、ドイツ人には「これは命令である」、そして日本人にはどう説得するかと言うと「みんながやっているぞ」と言う。まさにそうなんだ(笑)。でもこれも作法を学んだ日本人の美徳かもしれない。
さて、写真撮影にも作法はあると思う。かつて写真撮影は師弟制度が成り立っていた。プロだけの話ではない。アマチュアでも同じ。なんのこっちゃ?、と思われるだろうが、単純な話、「写真を覚える際、必ず周囲に師匠がいた」のである。
それが父親や親戚のおじちゃん、はたまた写真部の先輩だったりする事が多いだろう(私は叔父が師匠で、モノクロ現像、プリントの基本も教えられた)。彼らが技術的以外にも、撮影時の作法(マナー、ルール)を教えてくれた。
そして独り立ちしてからも、撮影地情報は同志、先輩から教わる事が多かった。勿論、写真雑誌で撮影地情報は得られるが、スポット的な、ここがポイントだ!、なる場所はコミニケーションによって得るしかない。
昔は廃墟情報、撮影ポイントなんて絶対に手に入らなかった。そりゃぁそうだ。廃墟の大半は私有地。写真雑誌がそんなロケ地を紹介出来る筈がない。私は運良く、仲良くしていたカメラマンが廃墟マニア(腐金属マニア(笑))だったから、関東圏の産業遺構に関しての情報は彼から色々と得ていた。
しかし今の時代、写真テクニックからロケ地まで、情報の大半はインターネットで得られ、師匠が不在のアマチュアカメラマンばかりになった(なりつつある?)。だから作法を理解していないカメラマンが仰山溢れる事になる。
結果、どうなるとかと言うと、自分の常識が世間の常識と離れてしまう。3月12日の記事での事象はまさにそんな感じに見えてしまうのだった。
確かに鉄道専科の方達なら草刈りは当たり前の行動であったろう、また多くは地方で撮影だから近隣から苦情が来る事もなかったろう、また10年以上前はその程度で糾弾される事もなかったろうと推測出来る。
でも時代は変わった。フィルム時代と比較して人物スナップや廃墟の撮影が困難になったのと同じく、鉄道写真でも時代にマッチした作法が必要だと感じており、中井氏はその辺を理解せねばならないだろう。
この雑草チョキチョキ行動は写真界で特に大きな問題にはなっていない筈だ。しかし、ツイッターやネットマガジンで謝罪した手前、氏は今後、二度と所有者の許可なしに雑草をチョキチョキ出来なくなった。大きな足かせを背負った事になる。
「親、近所のオヤジ含めて、正しい行いに導く人が減った」と表現出来る。だから間違った作法、風習が伝聞され、それが「当たり前」となってしまう。本来、中井氏が「親、近所のオヤジ」の役目を果たさないとならないのだろう。
「千社札は自分の分身だ」、それだけで千社札風の化学合成された接着剤のシールを神社に許可無く、貼ってしまう、これってただ目立ちたいだけ、暴走族の落書きと同じ思考。そうでなく千社札の文化、風習、歴史をまずは知る事から始めるべきなのだ。
それを知ると、神社での参拝での作法にまで興味が湧く。鳥居の前で一礼、手水舎ではひしゃくに口を付けない、参道の真ん中は神様が歩くから端を歩く、二礼二拍手一礼、参拝はお願いで無く決意表明・・・。神主の息子氏曰く、人間が考えた作法でしかないのだが(神様が参道を歩く姿を見た人は誰もいないでしょ(笑))、この作法を重んじる事が即ち「粋」に通じていくんだと思う。
若い青年が恋人と神社にお参り、そんな時にこそ照れずにこれらを励行する、粋だと思う。我々オッサンから見ても若いのにやるねぇ!、と褒めたくなってしまう。そんな若い世代がそうなってくれないと、その次の世代の子達が作法、文化を曲解していくのだ。
きりが良いので今回はこれにて終了。でも続きがあるので次回のネタもどうぞご覧になって頂きたい。
余程の信仰心のある人を除いて、我々が神社にお参りするのは初詣と、旅行中、観光地として有名な神社を訪れるくらい。せいぜい年に数回。千社札を正しく活用すれば、まさに願ったり敵ったりのツール。
そして、ふと都内の神社では千社札って見掛けないけど、その風習はすでに消滅したのか?、と疑問に思った。調べてみよう!。
なるほど!。今書いた通り、千社札はお参りした証しだから、当然神社から許しを得て貼る訳だが、昨今、それを知らない人々、そして機械の発達により、誰もが簡単に作れてしまう「千社札風のシール」が出てきてしまい、それを勝手に貼り付ける輩が増え、化学合成の接着剤によって剥がれなくなったりと、多くの神社では千社札そのものを貼る事を禁止しているとの事。
確かにビニールみたいなシールがあっちこっちに貼られているのが目に付き、これを千社札として神社に貼ったとしても、単なる悪戯でしかない。皆さんも「千社札風のシール」は自分の持ち物にだけに貼るもの、そう思って頂きたい。
確かに江戸時代中期になると千社札は江戸庶民の遊びのツールだった。現代風に言えば、お洒落な名刺をどれだけ配れるか・・・(千社札の場合は、配るのでなく神社に貼り付ける訳だが)。ところがこの遊びが平成に入って、間違った風習として伝わっちゃった。
神社では他にもどうしてそんな事するの?、って人が結構いる。それは手水にて。「左手、右手、そして口をゆすぎ、最後にひしゃくの柄に水を流す」、これは大概の人は知っているだろうが、問題は口をゆすぐ時・・・。
ひしゃくに直接口を付けている輩を結構な確率で見つける事が出来る。潔癖症ではないが、他人が口を付けたひしゃくで手を洗うなんてとてもじゃないが気持ち悪い。
また、直接口を付けちゃう人ってのは、口をゆすぐ場合、ほんのちょっとの水でいいのに大量に口に含ませるから、吐き出す時に周囲に水が飛ぶんだな。非常識な団体客と一緒になったらもうおしまい。ごめんちゃい、全て清めたつもりになって手水舎を通り過ぎちゃう。
時に、手水舎そのものが機能していない神社も最近増えている。これは恐らくO157とかインフルエンザ予防があるのだろう。どう考えても昔の方が不衛生だとは思うが、今はクレーマーとかモンスターなんちゃらもいるし、神社に対しても行政側から指導しているのかもしれない。
将来、神社の参拝にて、手水舎には手水とひしゃくでなく、アルコール消毒液のボトルが置かれている、そんな状況を想像してしまう。口をゆすぐにもリステリンみたいのが置かれていたりして・・・。
手水舎がない、これは実は参拝にはルールがないと言う事。一般に拝殿では二礼二拍手一礼と言われているが、これもやらなくても良いそうだ。以前、そこそこ有名な神社の神主の息子ってのと知り合いになり、神社ハウツーを色々と教わった。その時に「あれは人間が作ったルール、一般の参拝にルールなんてないよ」と断言していた。
ただこんな苦言も。「神様にお願いするんじゃないんだよね。あれは己の決意表明をし、どうか神様、見守り下さい、これが正しい」とも言っていた。私もこれはその時初めて知り、それ以降、初詣では「昨年は無事に生活出来、ありがとうございました。今年も精一杯生きるのでどうかお守り下さい」と参拝するようにしている。
恐らく多くの人は「お願い」をしちゃうんじゃなかろうか?。これは間違って風習が伝わった特に悪い例だと思う。
とは言え、日本人は「作法の美」、これに突出している。茶道もそうだと思う。良くテレビでお茶の先生が「美味しく飲まれればそれで結構です」と言っているが、やはり作法があってこその茶道なんだと思う。だからこそ神社での参拝も作法に従うのが日本人として「粋」な部分だと思うのだった。
外国メディアが311の震災時の炊き出しの映像を見て、「日本人は凄い、パニックにならずにちゃんと大人しく並んでいる」とびっくりしたそうだが、これこそ子供の頃からある程度の作法を仕込まれているからであろう。
反対に日本人を揶揄するように「日本人はみんな右に倣え」と言う外人、そしてかつては学校の制服、決められた服しか着れない事に驚愕する・・・(今はアニメ、オタクブームだから反対に制服が認められていたりするらしいが)、確かに自分は自分、そう仕込まれてきた世界からすると異様な風景に映る。
こんなアメリカンジョークがある。無理難題を押し付ける際、アメリカ人には「君がヒーローになれるよ」、イギリス人には「女王陛下のご希望である」、ドイツ人には「これは命令である」、そして日本人にはどう説得するかと言うと「みんながやっているぞ」と言う。まさにそうなんだ(笑)。でもこれも作法を学んだ日本人の美徳かもしれない。
さて、写真撮影にも作法はあると思う。かつて写真撮影は師弟制度が成り立っていた。プロだけの話ではない。アマチュアでも同じ。なんのこっちゃ?、と思われるだろうが、単純な話、「写真を覚える際、必ず周囲に師匠がいた」のである。
それが父親や親戚のおじちゃん、はたまた写真部の先輩だったりする事が多いだろう(私は叔父が師匠で、モノクロ現像、プリントの基本も教えられた)。彼らが技術的以外にも、撮影時の作法(マナー、ルール)を教えてくれた。
そして独り立ちしてからも、撮影地情報は同志、先輩から教わる事が多かった。勿論、写真雑誌で撮影地情報は得られるが、スポット的な、ここがポイントだ!、なる場所はコミニケーションによって得るしかない。
昔は廃墟情報、撮影ポイントなんて絶対に手に入らなかった。そりゃぁそうだ。廃墟の大半は私有地。写真雑誌がそんなロケ地を紹介出来る筈がない。私は運良く、仲良くしていたカメラマンが廃墟マニア(腐金属マニア(笑))だったから、関東圏の産業遺構に関しての情報は彼から色々と得ていた。
しかし今の時代、写真テクニックからロケ地まで、情報の大半はインターネットで得られ、師匠が不在のアマチュアカメラマンばかりになった(なりつつある?)。だから作法を理解していないカメラマンが仰山溢れる事になる。
結果、どうなるとかと言うと、自分の常識が世間の常識と離れてしまう。3月12日の記事での事象はまさにそんな感じに見えてしまうのだった。
確かに鉄道専科の方達なら草刈りは当たり前の行動であったろう、また多くは地方で撮影だから近隣から苦情が来る事もなかったろう、また10年以上前はその程度で糾弾される事もなかったろうと推測出来る。
でも時代は変わった。フィルム時代と比較して人物スナップや廃墟の撮影が困難になったのと同じく、鉄道写真でも時代にマッチした作法が必要だと感じており、中井氏はその辺を理解せねばならないだろう。
この雑草チョキチョキ行動は写真界で特に大きな問題にはなっていない筈だ。しかし、ツイッターやネットマガジンで謝罪した手前、氏は今後、二度と所有者の許可なしに雑草をチョキチョキ出来なくなった。大きな足かせを背負った事になる。
「親、近所のオヤジ含めて、正しい行いに導く人が減った」と表現出来る。だから間違った作法、風習が伝聞され、それが「当たり前」となってしまう。本来、中井氏が「親、近所のオヤジ」の役目を果たさないとならないのだろう。
「千社札は自分の分身だ」、それだけで千社札風の化学合成された接着剤のシールを神社に許可無く、貼ってしまう、これってただ目立ちたいだけ、暴走族の落書きと同じ思考。そうでなく千社札の文化、風習、歴史をまずは知る事から始めるべきなのだ。
それを知ると、神社での参拝での作法にまで興味が湧く。鳥居の前で一礼、手水舎ではひしゃくに口を付けない、参道の真ん中は神様が歩くから端を歩く、二礼二拍手一礼、参拝はお願いで無く決意表明・・・。神主の息子氏曰く、人間が考えた作法でしかないのだが(神様が参道を歩く姿を見た人は誰もいないでしょ(笑))、この作法を重んじる事が即ち「粋」に通じていくんだと思う。
若い青年が恋人と神社にお参り、そんな時にこそ照れずにこれらを励行する、粋だと思う。我々オッサンから見ても若いのにやるねぇ!、と褒めたくなってしまう。そんな若い世代がそうなってくれないと、その次の世代の子達が作法、文化を曲解していくのだ。
きりが良いので今回はこれにて終了。でも続きがあるので次回のネタもどうぞご覧になって頂きたい。

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